初夏のそよ風が窓から入り込む五月のある日、台所に立っていると、ふと懐かしい香りが鼻をくすぐります。ピリッとした刺激と爽やかな柑橘系の香り。それは実山椒の香り。祖母が台所で枝から一つ一つ丁寧に実を外し、下処理をしていた、あの懐かしい光景が蘇ります。
「香りが立つねぇ」と祖母は言いながら、小さな緑の実を器用に扱っていました。幼い頃の私は、その作業を横で見ながら、祖母の手の動きに魅了されていたものです。実山椒が奏でる初夏の風物詩。今日は、この日本の食文化に欠かせない調味料について、その魅力と楽しみ方を掘り下げていきたいと思います。
実山椒との出会い――緑の小さな宝石
実山椒(みざんしょう)は、ミカン科サンショウ属の植物で、日本の山間部に自生しています。特に京都の北山や大阪の山間部、和歌山県などが主な産地として知られています。5月から6月にかけて収穫される未熟な青い実が「実山椒」として私たちの食卓に届けられるのです。
この小さな緑の実は、見た目こそ地味ですが、その風味は格別。口に入れた瞬間に広がる爽やかな香りと、舌にじわりと伝わるしびれるような辛み。その独特の刺激は「サンショオール」という成分によるものなのですが、このサンショオールが食欲を増進させ、また体を温める効果もあるとされています。
私自身、初めて実山椒を口にしたのは小学生の頃。祖母が作ったちりめん山椒をご飯にのせて食べた時の衝撃は今でも忘れられません。最初は「ピリピリする!」と驚いたものの、その後じわじわと広がる風味の豊かさに、子供心に「大人の味」を感じたものです。あれから何十年。今では私自身が実山椒を愛する大人になり、季節になるとその青々とした姿を探し求めるようになりました。
実山椒の一年――採取から保存までの道のり
実山椒の一番の魅力は、その「旬」の儚さにあります。初夏のわずかな期間にだけ収穫される青い実は、まさに季節の恵み。その貴重な時期を逃さないように、山間部では丁寧に採取が行われます。
昨年の春、京都の北山で実山椒の採取を体験する機会がありました。地元の方の案内で山に入り、サンショウの木を見上げると、枝先に小さな緑の実がたわわに実っています。「採るのは簡単そうに見えるけど、コツがあるんだよ」と教えてくれたのは、地元で長年実山椒を採ってきた中島さん。
「若い実だけを選んで摘むのが大事。固くなったものはもう風味が落ちてるからね」
その言葉通り、実山椒を指で軽く押してみると、若いものはほんのり弾力があります。中島さんの手つきは実に鮮やかで、枝を傷つけないように注意しながら、テンポ良く実を摘んでいきます。私も真似をしてみましたが、これが思いのほか難しい。棘に刺されることもしばしばで、手には小さな傷がいくつもできました。
「昔から山椒は『木を見て、森を見ず』って言われてるんだ。これを採るには、細部に集中しすぎず、全体のバランスを見ながら採らないとね」
中島さんの言葉には、単なる採取方法を超えた、人生の教訓のようなものが含まれているように感じました。実山椒を通して、日本人の自然との向き合い方や、季節を大切にする心が伝わってくるようでした。
採取した実山椒は、下処理をしないと苦みが強く、そのままでは食べられません。そこで重要なのが「下処理」の工程です。これは家庭でもできる作業ですが、確かに少々手間がかかります。
枝から実を外し、塩でもみ洗いした後、熱湯で茹でこぼす。この作業を2〜3回繰り返すことで、苦みが抜け、実山椒本来の風味が引き立ちます。下処理の時に部屋中に広がる香りは格別で、これぞ初夏の訪れを告げる香りと言えるでしょう。
「下処理は面倒だけど、この香りを嗅ぐと、毎年やる価値があるって思うのよね」
友人の母親である田中さんは、30年以上毎年実山椒を下処理して保存している「実山椒マイスター」です。彼女によれば、下処理した実山椒は冷凍保存すれば一年中使えるとのこと。「特に冬場、体が冷える時期に実山椒の入った料理を食べると、不思議と体の芯から温まるのよ」と教えてくれました。
実山椒が奏でる料理のハーモニー――伝統と革新
実山椒の最も一般的な使い方といえば「ちりめん山椒」でしょう。ちりめんじゃこと実山椒を甘辛く炊いたこの佃煮は、白いご飯のお供として多くの日本人に愛されています。しかし、実山椒の可能性はそれだけにとどまりません。
私の友人で料理研究家の木村さんは、実山椒を使った現代的なアレンジレシピを数多く生み出しています。「実山椒のオイル漬け」はその代表格。下処理した実山椒をオリーブオイルと一緒に瓶に詰め、冷蔵庫で寝かせるだけの簡単なレシピですが、これが驚くほど多彩な料理に使えるのです。
「このオイルをパスタに絡めると、和と洋の素晴らしい融合が生まれます」と木村さん。実際に彼女の家で実山椒オイルのパスタをいただいたことがありますが、香り高い実山椒とオリーブオイルの組み合わせは、まさに目から鱗の美味しさでした。
また、実山椒は魚料理との相性も抜群です。鮎の塩焼きに添えたり、鯖の味噌煮に加えたりすると、魚の生臭さを打ち消すとともに、料理全体の風味を引き立てます。これは実山椒に含まれる成分が魚のたんぱく質と化学反応を起こし、より複雑で深い味わいを生み出すためと言われています。
「うちの祖父は鮎を釣ってくると、必ず実山椒を添えて食べていたわ。『鮎に山椒は天の配剤』って言ってたの」
80歳になる近所の松本さんは、子供の頃の思い出をそう語ってくれました。「天の配剤」という言葉には、自然が用意した最高の組み合わせという意味が込められています。日本人は古くから、食材同士の相性の良さを見出し、それを料理の知恵として蓄積してきたのですね。
近年では、実山椒を使った新しい商品も次々と開発されています。実山椒を練り込んだパスタや、実山椒入りのオイルサーディン、さらには実山椒のジェラートまで。伝統的な調味料が現代の食文化の中で新たな命を吹き込まれているのです。
私も昨年、思い切って実山椒のペーストを手作りしてみました。下処理した実山椒をフードプロセッサーで細かくし、オリーブオイルと塩を加えるだけの簡単なレシピですが、これが予想以上に万能調味料になったのです。グリルした肉に少し添えると、香りが立って肉の旨味が引き立ちます。サラダのドレッシングに混ぜると、爽やかな風味のアクセントに。一度作っておくと、様々な料理に活用できるので非常に便利です。
「実山椒は使い方次第で、和洋中どんな料理も格上げしてくれる魔法の調味料ね」
このペーストを友人に分けた時、そんな感想をもらいました。確かに、実山椒の持つ複雑な風味は、料理に奥行きを与え、一段上の味わいに導いてくれるのです。
市場で探す実山椒の宝探し――良質な実山椒の見分け方
良質な実山椒を手に入れるのは、実は簡単なことではありません。スーパーではあまり見かけず、専門の食材店や産地直送の通販サイトを利用することが多いでしょう。では、どのように良い実山椒を見分ければよいのでしょうか?
実山椒のプロとして知られる京都の老舗料亭「山椒亭」の料理長、西川さんに話を聞いてみました。
「まず、色を見てください。鮮やかな緑色で、つやがあるものが良いですね。大きさは小粒でもしっかりとした実が詰まっているものが風味豊かです。そして何より、香りを確かめることです。爽やかな柑橘系の香りがしっかりと感じられるものを選びましょう」
西川さんによれば、収穫してから時間が経ちすぎたものは、せっかくの香りが飛んでしまうとのこと。できるだけ新鮮なものを選ぶことが大切です。
また、実山椒を購入する時期も重要なポイントです。早すぎると未熟で風味が足りず、遅すぎると硬くなって香りが落ちます。5月中旬から6月上旬が最も良いとされていますが、その年の気候によっても変動するので、産地の情報をチェックするのが確実です。
「最近はネットでも質の良い実山椒が手に入るようになりました。私も昨年、メルカリで京都北山産の実山椒を見つけて購入したんですが、これが驚くほど新鮮で香り高かったんです」
そう教えてくれたのは、料理ブロガーの高橋さん。彼女によれば、生産者から直接購入できるネットマーケットは、都市部に住む人にとって貴重な入手ルートになっているとのこと。確かに、私も試しに検索してみると、「朝採り実山椒」「有機栽培の実山椒」など、こだわりの商品が数多く出品されていました。
しかし、実山椒を入手するもっとも理想的な方法は、やはり自分で採取すること。もし近くに自生しているサンショウの木を知っているなら、所有者の許可を得て採取させてもらうのが最高の体験になるでしょう。
「自分で採った実山椒には、特別な愛着が湧くものです。下処理の手間も苦になりません」
そう語るのは、兵庫県の山間部に住む農家の佐藤さん。彼の家の裏山にはサンショウの木が何本も自生しており、毎年家族で実山椒を採取して保存しているとのこと。「子供たちも小さい頃から手伝ってるから、実山椒の時期が来ると『あの匂いがする季節だ!』って喜ぶんですよ」と笑顔で教えてくれました。
実山椒の効能――伝統的な知恵と現代科学の視点
実山椒は古くから、その独特の刺激が食欲を増進させ、消化を助けると言われてきました。特に脂っこい食事の後に実山椒入りの料理を食べると、胃もたれが軽減するとの言い伝えもあります。
実は、これらの伝統的な知恵は現代の科学研究によっても裏付けられています。実山椒に含まれるサンショオールには、消化液の分泌を促進する効果があることが確認されているのです。また、抗菌作用や抗酸化作用も報告されており、健康維持に役立つ可能性が示唆されています。
「祖母は毎日朝起きると、実山椒の佃煮を少し食べていました。『朝のひとさじが一日の健康を保つ』って言ってたな」
70代の父はそう懐かしそうに話します。科学的根拠はともかく、毎日実山椒を摂取することで体調を整えていた先人の知恵は、侮れないものがあるのかもしれません。
また、漢方の世界では山椒は「温性」の食材とされ、体を温め、気の巡りを良くする効果があるとされています。寒い地域や冬場に実山椒料理が好まれるのは、こうした体感的な効果も関係しているのでしょう。
「私は冷え性なんですが、実山椒のお茶を飲むと体がポカポカしてきますよ。下処理した実山椒を少量、お湯に入れるだけの簡単なものですが、これが冬場の救世主なんです」
そう教えてくれたのは、自然療法に詳しい薬剤師の井上さん。彼女によれば、実山椒は古来より薬としても用いられてきた歴史があり、現代の私たちも「食薬」として上手に活用できるとのことでした。
実山椒が結ぶ人と自然のつながり――未来への継承
日本の食文化における実山椒の価値は、単なる味や風味だけではありません。それは季節を感じる心、自然の恵みへの感謝、そして世代を超えて受け継がれる知恵など、より深い文化的な意味を持っています。
しかし、残念ながら近年では実山椒を使いこなす家庭が減ってきているという現実もあります。下処理の手間や、季節限定の食材であることから、気軽に使える調味料ではないためでしょう。
「若い世代に実山椒の素晴らしさを伝えたいんだけど、なかなか難しいわね。でも、一度その香りと味わいの虜になったら、きっと大切にしてくれると思うの」
京都で実山椒料理の教室を開いている中村さんは、そう語ります。彼女の教室では、実山椒の下処理から保存方法、様々な料理への活用法まで、一連の工程を丁寧に教えているとのこと。参加者の中には、祖母の味を再現したくて来る若い女性も多いそうです。
「初めは『こんなに手間かかるの?』って驚かれるんですけど、実際に自分で作った実山椒料理を食べると、みんな表情が変わるんですよ。『あ、これが私の探していた味だ』って」
伝統的な食文化の継承は、このような地道な活動によって支えられています。一人ひとりが実山椒の魅力に気づき、それを次の世代に伝えていくことで、日本の豊かな食文化は未来へとつながっていくのでしょう。
私自身も、実山椒の季節になると、少し多めに購入して下処理し、友人たちにおすそ分けするようにしています。「初めて使ってみたけど、これは感動的!」というリアクションをもらうたびに、実山椒の魅力を伝える小さな役割を果たせたような喜びを感じます。
季節の移ろいを感じる実山椒の贈り物
窓の外では、初夏の光が木々の緑を鮮やかに照らしています。台所に立ち、昨年下処理して冷凍しておいた実山椒の最後の一袋を取り出しました。そろそろ新しい季節の実山椒が市場に出回る時期です。
実山椒の持つ爽やかな香りと刺激的な辛み。それは単なる調味料を超えて、日本人の四季を感じる心や、自然との共生の知恵を今に伝える、かけがえのない文化遺産とも言えるでしょう。
あなたも今年の初夏、実山椒との素敵な出会いを楽しんでみませんか?小さな緑の実が織りなす風味のハーモニーが、きっとあなたの食卓を豊かに彩ってくれるはずです。そして、その経験が次の世代へと受け継がれていくことで、日本の食文化の奥深さは未来へと続いていくのです。
「実山椒は、季節からの小さな、けれど確かな贈り物なんだよね」
そう言って祖母が微笑んだあの日の記憶を胸に、今年も私は実山椒の季節を心待ちにしています。